ラベル Today の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Today の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年10月26日金曜日

10/26 Today 安重根が伊藤博文を暗殺 (1909)

韓国総監として韓国植民地支配を進めていた伊藤博文が暗殺された。暗殺したのは安重根という人物:
安重根 - Wikipedia: 1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。狙撃後、安重根は ロシア語で「 コレヤ ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大きく叫んだ。

国により評価が分かれ日本ではあまり知られていない人物でもある。しかし彼が検察官に述べたという暗殺の動機には、いろいろ否定しがたい事実があることは認めなければならない。曰く:

  • 一、今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。
  • 二、今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。
  • 三、今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。
  • 四、伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。
  • 五、韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。
  • 六、条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。
  • 七、韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。
  • 八、韓国ノ学校ニ用イタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノモトニ焼却シマシタ。
  • 九、 韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁ジマシタ。
  • 十、 ナンラアテルベキ金ナキニモカカワラズ、性質ノヨロシカラザル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ、韓国民ニナンラノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテオリマス。
  • 十一、韓国民ノ負担ニ帰スベキ国債二千三百万円ヲ募リ、コレヲ韓国民ニ知ラシメズシテ、ソノ金ハ官吏間ニオイテ勝手ニ処分シタリトモ聞き、マタ土地ヲ奪リシタメナリトスト聞キマシタ。コレ韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス。
  • 十二、伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ。ソノ訳ト申スハ、日露戦争当時ヨリ、東洋平和維持ナリト言イツツ、韓皇帝ヲ廃シ、当初ノ宣言トハコトゴトク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ、韓国民二千万ミナ憤慨シテオリマス。
  • 十三、韓国ノ欲セザルニモカカワラズ、伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ借リ、韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通ジ、韓国ニ不利益ナル施設ヲ致シテオリマス。
  • 十四、今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
  • 十五、伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。

両班出身のインテリ。目白台の永青文庫 〔細川家宝物所蔵館〕で安重根の書を見たことがあるが、立派なものであった。なぜ細川家が安重根の書を保存しているのかは不明。名門細川家は足軽出身の伊藤博文なんかには遠慮しなかったのかも知れない。

2012年10月19日金曜日

10/19 Today ザマの戦い(BC202)……小回りの利かない巨象軍団は役に立たなかった

常勝ハンニバルもこの戦いで遂に敗れ、カルタゴの命運が決まった:
ザマの戦い - Wikipedia: "ザマの戦い(ザマのたたかい)は、紀元前202年10月19日に北アフリカのザマで起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。大スキピオ率いるローマ軍がハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争の趨勢を決した。"
ハンニバルは得意の象軍団(戦象)の突撃戦法をとるが、ローマ軍はすでに対処の仕方を知っていた。

両軍の配置の時系列:





ローマ軍の指揮官大スキピオはローマ軍を隙間を空けて配置する。戦象は前に進むだけなので、やって来たら横に避ければいいだけということがわかっていたのだ。カルタゴ軍は機動力のある騎兵軍団に後方を衝かれ、完全に包囲殲滅された。

「大艦巨砲時代」は紀元前3世紀にして、すでに終わっていたのである。


さて、戦後処理だが次のようなものだった:

ザマの戦いに敗れたカルタゴは、スキピオに講和を申し入れた。ローマの全権代表であるスキピオは10項からなる講和条約を提示した。以下、特に重要と思われるものだけをあげる。
  • カルタゴはローマの承諾なしには戦争を行わない。(これで実質のカルタゴは完全な自治国家とはいえなくなった)
  • 軍船は10隻を除き全てローマに引き渡す。
カルタゴは条約を受け入れた。これによって、カルタゴは海外領土および海軍力をほぼ喪失し、ローマの地中海における覇権が確立することとなった。
なんかどっかの国の無条件降伏と似ているが、ローマはこれでカルタゴを「いつでも滅ぼせる」という生殺与奪権を握ることとなる。 こういう条件を呑まされた以上、カルタゴ・ナショナリズムは自殺行為以外の何者でもなくなってしまう。現にカルタゴはその後、現実を直視出来ない連中のへんなプライドのおかげで自滅し〔第三次ポエニ戦争〕民族は物理的に歴史から消滅してしまう。

2012年10月15日月曜日

10/15 Today アメリカがキューバを海上封鎖、キューバ危機の始まり(1962)

一つ間違えば第三次世界大戦が勃発するという極めて危険な状況であった。当時の日本に於いても終日終夜この状況に関する臨時ニュースがラジオで流された。ミサイルを搭載したソ連船はキューバの港を直前にして、入港をせず停船し、更に引き返したと報じられたのは、明け方近くになってからのことであった。朝までトランジスターラジオの前にかじりついていた僕らは、みんな徹夜明けの赤い眼を擦りながら、それでも戦争は回避されたと安堵しながら、翌朝学校に行ったものである。

キューバ危機 - Wikipedia: 1962年10月14日にアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル (MRBM) の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル (IRBM) を発見した。
これに対してアメリカ政府は激烈な反応を示し、ケネディ大統領はエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第1段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止しようとした(これに対してソ連船は海上封鎖を突破することはせず、また臨検を受けることをよしとせず引き返した)。


アメリカ〔ケネディー〕があれほどまでに強気に出られたのは、あくまでもアメリカの強大な軍事力の存在があった。当時のソ連の軍事力では戦争を始めてアメリカを部分的に攻撃し破壊することは可能であったが、アメリカを全面的に壊滅させることは到底不可能であったのだ。一方で当時のアメリカにはソ連を全面的に壊滅させるだけの核軍事力があった。フルシチョフは冷徹な判断が出来るまともな人間であったので、ここでキューバのカストロと心中する覚悟でアメリカを事を構えてもなんら得することはないとの冷静な判断が出来たのである。ソ連に見捨てられたカストロは激怒したが所詮ごまめの歯ぎしりに過ぎなかった。

同時にフルシチョフはソ連国内を完全に掌握している自信があったので、国内の好戦的なウヨ・ポピュリズム感情は無視することが出来た。文句を言う輩はシベリア流刑にすればよかったのだ。国内政治で強力な政治家であることではじめて国際関係で譲歩が出来るのである。

ひるがえって現在の極東の情勢を考えると、こういった理性的な交渉事がとても出来る状況にない。衆愚的なポピュリズムと感情論にあまりに振り回される政治構造が定着してしまっている。戦略的にはまるで意味もない小さな岩礁の帰趨を巡り、国民感情と面子だけで物事が進んでしまうのだ。この舞い上がった国民感情を押さえ、バランスを取り冷静化させるメカニズムは、宗教コミュニティー規範が本来的に欠如するアジア的生産様式文化圏においては、とても脆弱である。市民運動とやらのオルターナティブ規範も簡単には出来上がらないだろう。地球上でこれだけ多くのつまらない領土紛争がある地域は東アジアだけである。おまけに領土問題以外でも、政治がこの国民的感情論に振り回される状況が続いている。悲観的にならざるを得ない。

2012年10月14日日曜日

10/14 Today ノルマン・コンクエスト ヘイスティングズの戦い( 1066)

ノルマン・コンクエストThe Norman Conquest of England)は、ノルマンディーギヨーム2世によるイングランドの征服。ヘイスティングズの戦いでイングランドの国王ハロルド2世は戦死。フランスのノルマンディー地方に住み着いてフランス語を話すようになっていたヴァイキング(ノルマン人)がイングランドを征服した。イギリスはこのときからしばらく、フランス語を公式言語として使用することとなる。被征服民族サクソン人は豚(サクソン語で pig)を飼い、征服者のノルマン貴族は食卓で豚〔フランス語で pork)を食べることになった。同じ豚でも、サクソン人が豚小屋で飼っているうちは pig と呼ばれ、ノルマン人が食卓で食する段階になると pork と呼ばれたのである。屈辱的だが、王様が戦で死んでしまったからには、仕方がなかった。でもこのことは、英語の語彙を極めて複雑で豊富なものにし、膨大なシェークスピア戯曲を生むことにも繋がった。人間すべて塞翁が馬なのである。
ヘイスティングズの戦い - Wikipedia: 決戦は10月14日朝に始まった。ノルマン軍は短弓やクロスボウを装備した弓兵に援護させながらの騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍は長大な戦斧を装備した重装歩兵による密集陣形でこれに応じ、昼までに戦闘は膠着状態に陥った。この後に何が起こったかについては諸説あり、ノルマン側の弓兵がハロルド軍の前衛の盾の列の後方に攻撃を集中した結果、イングランド軍の陣形が綻んだとの説や、ギヨーム2世が退却を装ってイングランド軍の前衛を突出させたところで反転攻撃に転じたとの説もある。いずれにせよノルマン軍はイングランド軍の陣形を崩すことに成功し、ハロルド2世は戦闘中に落命した。

『アイバンホー』を読むとノルマン征服後のサクソン人の暮らしがどんなだったかわかる。貧乏だったが一応サクソン貴族も存続は許されていた。ユダヤ人たちが虐められていたのも分かる。閉鎖社会がグローバル化する過程においては、いろいろ摩擦も生じる。しかし時間が経つにつれ、人々は現実対応で折り合いを見つけ出してゆく。

2012年10月2日火曜日

10/2 Today リットン調査団報告書発表(1932)

満州をめぐる紛争を調査するため国際連盟から派遣されたリットン調査団が最終報告書を発表した日:
リットン調査団 - Wikipedia :"調査団はまっすぐ満洲入りするのではなく、日本、中華民国(上海南京北京)の視察も行っている。日本では荒木陸相、中華民国では蒋介石汪兆銘張学良、満洲国では当時「執政」の座にあった溥儀と会談している。さらに満洲で抗日活動を続ける馬占山将軍との会見も試みたが、日本側の反対に会い実現できなかった。調査団の視察は1932年6月に完了。8月より北京で調査報告書の作成を開始し、10月2日、報告書を公表した。"


報告書の内容は、日本の満州における権益を維持するものであり、 実質的に日本には損のない内容。ところが「満州国」が認められなかったことで日本はこれに反発し、国際連盟を脱退。その後の展開は皆の知るところ。「名を捨て実を取る」と言うことを知らなかった。

硬直的な官僚的思考および国民の「空気」とやらに流され、健全な常識を失うと、常にこういうことになる。

2012年10月1日月曜日

10/1 Today 東海道新幹線の開通(1964)

日本人があれだけ誇りを持てた時はあまりなかったのではなかろうか。世の中、高度成長期の真っ直中、東京オリンピックも開催される、それに合わせていよいよ世界最初の新幹線が開通した。

東海道新幹線 - Wikipedia: 世界初、日本初の高速鉄道であり、日本国内の新幹線としては最古の歴史を持つ。
輸送力が限界に達していた東海道本線の混雑を解消するため、根本的対策としての別線増設という形で1959年(昭和34年)4月20日に十河信二国鉄総裁と技師長の島秀雄の下、高速化が図れる標準軌新線[1]として着工され、東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業した[2]。

 新幹線は世の中を確実に変化させた。なによりもみんな勤勉に働くようになった。なにせ以前は東京・大阪間の出張は一泊するが前提であったのに、新幹線のおかげで日帰りすら可能になったのだから。「昔は仕事を適当に済ませてから帰りを気にせず宿の近くの呑み屋に飲みに行くのが楽しみだったのに新幹線のおかげで出来なくなってしまった」とぼやく輩もいたが、そんな声はもちろん無視された。みんな希望に満ちていた。

安倍新自民党総裁は「若者が誇りを持てる日本にしたい」とのことらしいが、そのためには気持ちが悪い「美しい国」などやらにするよりは、なによりも経済発展と技術革新が可能な国にするべきである。「清貧趣味」は年寄りだけで十分だ。

2012年9月23日日曜日

9/23 Today アルゼンティンのポピュリスト独裁者ペロンが大統領に復帰(1973)

フアン・ペロン - Wikipedia: フアン・ドミンゴ・ペロン(Juan Domingo Per�n、1895年10月8日 - 1974年7月1日)は、アルゼンチンの軍人、政治家、大統領。
大統領に3回当選したが、独裁者と呼ばれたこともあり、アルゼンチン国内でもその評価は分かれる。ペロンの支援者「ペロニスタ」が母体となった正義党は、現在でも同国内で大きな影響力を持っている。
当時アルゼンティンでこのペロンの復帰を現場で見たが、国民大衆は熱狂的に盛り上がっていた。ペロンの第一回大統領政権期のバラマキのおかげで、豊かであったアルゼンチン経済は衰退し、国力はすっかり落ち目になってしまったわけではあるが、バラマキの受益者であった組織労働者たちは、そんなことには気をかけない〔気づきもしない〕。「夢よ、もう一度」というやつ。

大衆は経済が落ち目になると「ナショナリスト・ウヨ」に大変身する。これはアルゼンティンに限ったことではない。

2012年8月9日木曜日

8/9 Today 明治政府が「断髪令」を布告 (1871)

Wikipedia では:
散髪脱刀令 - Wikipedia: 散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)とは、明治4年8月9日(1871年9月23日)に明治政府によって出された太政官布告。一般には、断髪令(だんぱつれい)という名称で呼ばれる。
かなりルーズな規定で、守って守らなくっても、特に罰せられなかったようだ。同年米国に向けて出発した岩倉使節団の岩倉具視も出発時は丁髷をしていた〔その後シカゴで断髪)。Before / After の写真をお楽しみ請う:

Before :


After :

それでも陋習に固執する国民の反発は大きく、こんな事件も:

明治6年3月敦賀県(現在の福井県嶺南)で、断髪令に反対する3万人が散髪・洋装の撤廃を要求した一揆が発生し、6人が騒乱罪死刑となっている明治6年3月20日 東京日日新聞)

いつの時代も、人々の風俗習慣を〔たとえそれが悪習陋習であったとしても〕変えさせることは、とてもむつかしいのである。

2012年8月4日土曜日

きょう8月4日はビヤホールの日、銀座ライオンの生ビールが半額に!

こういうことらしいです:
8月4日はビヤホールの日:
 1899(明治32年)8月4日 日本初のビヤホールが誕生:
モダンな造りで大盛日本初のビヤホール「恵比壽ビヤホール」は、銀座の新橋際(京橋区南金六町五番地 現銀座八丁目)にオープンしました。規模は35坪、入口から向かって左側にカウンターを設け、床はリノリウム張り、イスやテーブルはビールの樽材でつくられ、また酒器はガラス製のジョッキで、当時としては極めてモダンな店でした。設計は工学博士である建築家の妻木頼黄氏に依頼し、奇抜な設計にしてもらった、と記録が残っています。
このビヤホールは、2階建ての煉瓦造りの建物の2階を間借りして開店したにも関わらず、当時有名だった小林習古画伯の壁画を飾るなどとても豪華な造りをした店舗だったため非常に繁盛しました。1日の来客数は平均800人に達しました。遠方から馬車でやってくる人もいたそうです。なお、当時はビール500mlが10銭で販売されていました。当時は、もりそば1枚、コーヒー1杯が1~2銭、食パンが5~6銭程度でした。

で、銀座ライオンではそれを記念して「生ビール半額」などの大キャンペーンを:


呑める人は行かねばなりませぬ。

蛇足:日本のビールが高い理由がわかりました。発売当初から「舶来でモダンな高級飲料」というイメージで(盛りそばの5倍から10倍の値段で)売り出したので、それが続いているんですね。一方海外では水の替わりにビールという意味合いが強く安い値段でないと売れなかった、と言うことでしょうか。

2009年10月14日水曜日

10/14 Today 鉄道の日:リニア新幹線なんかより大都市圏鉄道の標準軌化(改軌)の方が先じゃないか?

国土交通省のHPに因れば、今日は「鉄道利用者とのふれあいを持ち、これからの“愛される鉄道”を共に考える」日とのこと。下々の国民にも発言を許してやろうという目線の高い文章だが、折角の機会だからおいらも申し述べる。

国土交通省のページ:
10月14日は鉄道の日: "明治5年(1872年)10月14日に新橋~横浜間が開通した日本の鉄道は、国の発展に欠かせない基幹産業として、また最も身近な公共交通機関として、高速化・定時化・大量化・安全化に取り組み、経済活動の要、生活の足として、確かな基盤を築いてきたんだ。

このことを記念して、平成6年より10月14日を「鉄道の日」と定め、JR、民鉄等の鉄道事業者とその関係者が一堂に会し、鉄道の発展を祝うとともに、鉄道が国民に広く愛され、その役割について国民の関心が高まることを願って、多彩な行事を行うことにより、鉄道利用者とのふれあいを持ち、これからの“愛される鉄道”を共に考え、より一層の発展に寄与してるんだよ。"

JRの大プロジェクトといえばリニア新幹線。でも飛行機との勝ち目のない競争にバカなお金を使うよりもっと大事なことがある。ニッポンも、そろそろ世界でも例がすくない「植民地的な」狭軌鉄道から卒業し、線路の幅の広軌化(標準軌化)する時に来ているのではないか。せめて大都市圏だけでも早くやるべきだ。そうすれば台風が来たぐらいで首都圏JRが機能停止に陥ることはなくなる。車体の幅は同じでいいのだから新たな用地買収をする必要もない。リニアなんかよりよほど国民のためになるだろう。

日本での狭軌と広軌を巡る論争と改革の失敗については、ここが参考になる:
日本の改軌論争 - Wikipedia: "日本の改軌論争(にほんのかいきろんそう)においては、発祥時に1067mm軌間(狭軌)を採用した日本の国有鉄道(国鉄)が、1435mmの標準軌へ軌間を変更しようとした運動のことを記す。

日本の改軌論争は公共サービスの経済学において、国家的な政策と日々進歩する技術の両面が複雑に絡み論争を引き起こした最初の事例であり、ずっと後に至っても交通、通信、放送の分野において同様の論争が起こる度に「改軌の轍は踏まぬよう」という言葉が交わされている。"


これを考えさせられた契機は先日の台風18号。首都圏のほとんどの私鉄は運行しているのにJRだけが全面的に止まってしまった。風が吹くと止めることになっているらしい。それはJRが狭軌である以上仕方がないことらしいが、非常時にこそ公共交通機関の正常運行が求められるのに困ったことである。

この件については、小生ブログのコメント欄で詳しく説明してくれた人がいた。感謝する:
Letter from Yochomachi: なぞなぞ(JR系):どうして台風でJRだけが「運休」や「運転見合わせ」が多いのでしょうか?:”匿名 さんのコメント...
報道管制が引かれているようでマスコミは取り上げませんが、JR(旧国鉄)の線路幅は、狭軌と呼ばれる規格で線路幅が1067ミリです。
私鉄や一部の地下鉄は国際標準の広軌と呼ばれる規格で線路幅が1435ミリです。
JRでは新幹線だけが広軌の1435ミリです。
素人でも解るとおり、車輪の幅が約1mと1.4mでは安定性が全く異なります。
JRの狭軌は、軽自動車の車輪に大型バスを乗せているようなもので、風やカーブで転倒しやすい方式です。
今回の台風18号によるJRの大規模運休は、単に強風の影響ではなく、JRが狭軌方式を採用しているのが本当の理由です。
過去の鉄道事故でも、風やカーブで脱線転覆したのはJR(旧国鉄)が圧倒的に多いです。広軌方式の私鉄は転覆しません。
狭軌は、昔、植民地などに低コストで鉄道を敷設するために採用された簡易な鉄道規格です。
経済大国が、国土の大部分を狭軌方式の鉄道を張り巡らした例は日本以外にありません。
狭軌方式の鉄道で時速80Km以上は危険であるという研究結果を旧JRの鉄道研究所が発表しています。
JR福知山線事故は、広軌方式を採用して、新幹線と同じ性能と安全性を持つ関西の私鉄に、JR西日本が貧弱な狭軌方式の列車で速度競争を挑んだのが原因です。
残念ながら、この事実は、事故報告書でもマスコミ報道でも一切触れられていません。
時速80Km前後で走るJRの通勤電車、特急電車は、常に走る棺桶であることを国民は知る必要があります。
鉄道を利用するときは、広軌方式を採用している私鉄や地下鉄に乗りましょう。”

なぜ広軌に出来ないのだろうか。今さら広軌に変更すれば天文学的なお金がかかるというのは、どうも信用できない。レールをずらして、電車の下に取り付ける台車(車軸と車輪を組み合わせたもの)だけ取り替えれば済む話だ。車体の幅は広げなくても同じでいいのだから用地もホームもトンネルも今ののままで使えるはず。

きっと「JRは全国一律に同じ仕様でなければいけない」という「みんな一緒に」精神が問題を複雑化させているのだろう。巨大な通勤客輸送を必要とする大都市圏だけではじめればいい。JRは「安全安全」を言うのなら、風が吹いたらお休みというのではなく、改軌による抜本的な安全策を講じるべきだ。

2009年9月12日土曜日

9/12 Today 水路記念日

こういう記念日があったのだ:
海上保安庁 Japan Coast Guard:”9月12日は水路記念日!日本の海図作成がスタートした138年前のこの日を記念し、海洋情報資料館の特別公開を開催します。明治4年9月12日(新暦換算)、我が国の海図作成機関として、兵部省海軍部水路局が誕生しました。”
たいへん大切な情報であり、苦労して作ってきたことは分かるけど、なんで海図ってあんなに高いんだろう? 輸入のGPSプロッターに入っている日本周辺海図の方がよほど安い。メリケン政府はGPSデータを全地球にタダで配信している。ニッポンもそろそろ海図データはパブリックドメインとしてもいいんじゃないか?

ともあれ、
水路記念日に併せ、海上保安庁海洋情報部の海洋情報資料館において、伊能図などの貴重な資料を特別公開します。
○海洋情報資料館特別公開
(1) 主な内容
①伊能図(原寸・縮小模写図)
明治の初めに海図作成に活用するため伊能図原本から原寸模写された「豊後(別府、大分)」「豊後日向(津久見、佐伯)」「肥後日向(宮崎)」の三図及び縮小模写された関東周辺の「武蔵相模」「安房上総」「駿河伊豆相模」など
②軍機海図
昭和15年から18年に刊行された横須賀軍港付近の軍機海図
③東京湾の変遷を示す海図
明治以降の時代とともに移りゆく東京湾の様子を示す海図
④秘密海図・大日本海岸実測図
明治時代に刊行された海図を地図帳形式にまとめたもの
⑤その他
我が国最初の釜石港の海図と銅版並びに明治初期に使用した測量機材、日本海軍航空図等の貴重な資料
(2) 期間:平成21年9月14日(月)~16日(水)午後1時~午後5時
(3) 場所:海洋情報資料館(海上保安庁海洋情報部庁舎内:別図参照)
東京都中央区築地5丁目3番1号
(4) 問い合わせ先:電話03-3541-3686 海洋情報部企画課

とのこと。

2009年9月9日水曜日

9/9 Today 毛沢東が死ぬ(1976)

沢東 - Wikipedia: "毛 沢東(もう たくとう、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍人、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之、筆名は子任。中国共産党の創立党員であり、中華人民共和国の建国の父とされている。創立の1949年から死去する1976年まで、同国の最高権力者の地位にあった。"

彼の「政策」のおかげで数千万人の中国人が餓死したとも言われている。思いこみが強い人間が絶対権力を握るとたいへんなことになるという例。それなのにアホな国民は、毛の演出で集団ヒステリーにかかり、熱狂的に彼を支持した。

いまのニッポンの「いくらお金がかかってもいいからシロクマを守ろう」政策も、国民は圧倒的に支持をしているらしい。鳩山流「大躍進」政策は、日本経済を大躍進させるどころか、シロクマを守るだけのものとなりつつある。しかもシロクマ(北極グマ)は泳げるのを知らないらしい。

2009年8月28日金曜日

日経:失業率史上最悪、叫びの悲鳴「人気取りより安全網」

今日の日経夕刊の社会面。具体的なだけに迫力がある。このような悲惨な状況に追い込まれている都市労働者と、一方で既得権と政治力に守られ、世界大不況の現実はよそ事としてぬくぬくと生活している農村既得権集団との落差はあまりにも大きい。義憤を感じる。以下日経記事要旨:

  1. ハローワーク池袋には朝から職を求める若者や女性らがひっきりなしに訪れる。
  2. 昨秋解雇された板橋区の男性(41)は「どんどん求人数が減っている。1件の求人に対し100人が応募することもある」と途方に暮れている。
  3. 職と住まいを失った人に神奈川県が提供している施設では32人が不安の毎日を過ごす。

  4. 機械器具製造会社を解雇された男性(46)は、月13万円の失業手当でやりくりをするが食事は1日に1回、白米とインスタントラーメンで空腹を紛らわす。
  5. 中野区の女性(56)は約12万円の失業手当から、昨年の収入を基準とした税金や社会保障を差し引かれると5万円しか残らない。「今の政策が現場では矛盾だらけなことに政治は気がついていない」という。
  6. 新宿区の男性(46)は妻と相前後して職を失った。「年越し派遣村」に足を運んだ。「派遣村は本来なら国がやるべき仕事」と腹を立てる。
  7. 半導体部品製造工場で派遣切りにあった松戸市の男性(36)は、民主党などは製造業派遣禁止を政策としてあげていることに「企業に正社員を雇う体力がないのに禁止したら100万人単位の失業者が出る」と批判する。「人気取りの政策ではなく、きちんとしたセイフティーネットを作るのが政治の役割のはずだ」と。

まさに悲惨だ。新宿みたいな都市部に住んでいるとその悲惨さが実感として肌で感じる。でもこういう悲鳴の声は、現代ニッポンでは政治に反映されない。政治力を持つイナカの既得権集団だけが面倒見て貰えるシステムになっているからだ。ここ:
農政に見る民主主義の罠 - Chikirinの日記: "今回の選挙のマニュフェスト比較で、もっとも「どっちもどっち」なのが農業政策。自民党も民主党もその他の党も基本的な主張は同じ。「貧しくて非効率で高齢化が進んでいる、超かわいそうな農家を守り抜く所存でありますっ!」ということらしい。

他の点に関してはそれなりの対立点もあるのに、なんで農業だけ皆で意見が同じになるのか。これが最初の疑問。

それからもうひとつ。これだけすべての党が「農家を支援します!」と叫んでいるのに、少なくともマスコミが拾ってくる“農家の声”には全くポジティブなものがない。これもとても不思議。こんだけ“農家向け”の公約が用意されてるのに、なぜ田んぼやら畑でインタビューを受けている人は嬉しくなさそうですの?"

最後まで読まれることをおすすめする。これはとてもよく書けたブログ記事だと思う。ニッポンの問題の本質はここにあるからだ。

しかし、とてもよく書けているこの記事に対し、批判的な罵詈雑言が多く寄せられている。しょせんネットの出来事ではあるが、ニッポン人にはイナカ出身者(つまりイナカモン優遇政策の受益者)もしくは心情的イナカモンが多いのだな〜と、天を仰いでしまった。

こういう状況では日本の金融市場はますます海外から相手にされなくなる。いまや日本株式市場は「イレレバント(無関係)」とウォール街ではみなされているそうだ(日経「ウォール街ラウンドアップ})。日本の金融関係者にはナショナリストが多いが、もともとイナカ出身者が多いことも原因かもしれない(なにせイナカでは公務員となるか銀行に勤めるのがいいこととなってきたから)。いくら嘗て国際競争力があった日本産業が頑張っても、またいくらウヨ金融評論家が「ニッポンはこれでいいのだ〜!」と詭弁を講じても、日本株は売りだな。

8/28 Today 大伴家持が死ぬ(785)

大伴家持 - Wikipedia: "大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人。三十六歌仙の一人。大納言大伴安麻呂の孫。大納言大伴旅人の子。従三位・中納言。

長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。"
家持が編集した「万葉集」抜きでは日本文化は語れない。それほど偉大な業績を残した。しかし晩年は不遇であった。

天平宝字3年正月の家持最後の歌「新しき年の始めの初春の……」以降、家持は歌を詠まぬ人となった。死ぬまで実に22年間、歌を詠んでいない。どういう心境だったのだろうか。

名門大伴家の家長として台頭する新興勢力藤原家との抗争に明け暮れ、最後はそれに敗れたと見るのが一般的な見方。家持にとっては、政治は芸術よりも大切だったのである。家持はとても真面目な人だったのだと思う。

2009年8月26日水曜日

8/26 Today サイデンステッカーが死ぬ(2007)

エドワード・G・サイデンステッカー - Wikipedia:"エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker, 1921年2月11日 - 2007年8月26日)は、日本文学作品の翻訳を通して、日本の文化を広く紹介したアメリカ人の日本学者。より正確には「サイデンスティッカー」だが、親しみをこめて「サイデンさん」などと呼ばれる。"
ところで、サイデンステッカーが一番愛した日本の作家は誰かご存じか?

永井荷風なのである。ここ:
サイデンステッカーが一番愛した日本の作家、永井荷風: "今朝の日経書評欄で日本文学研 究家で「源氏物語」の英訳者でもあるE・G・サイデンステッカーの新しい本が紹介されている。評者は桶谷秀昭氏。その中で桶谷氏は「見落とせないのは、サ イデンステッカーの永井荷風にたいする強い関心と尊敬の念である」と述べておられる。実際サイデンステッカーが永井荷風を一番好きな作家だと書いている文 章が存在するのだ。"

2009年8月25日火曜日

8/25 Today 種子島に鉄砲伝来(1543)

鉄砲伝来 - Wikipedia:”『鉄炮記』によれば、種子島への鉄砲伝来は天文12年8月25日 (旧暦)(ユリウス暦1543年9月23日)の出来事で、大隅国(鹿児島県)種子島西之浦湾に漂着した中国船に同乗していたポルトガル人(「牟良叔舎」、「喜利志多佗孟太」)が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。”
この「西之浦湾」というのは、どこだろう?

どうも、現在の「西之表港」にあたるようだ。それ以外に種子島の西側に湾なんてないもの。

西之表市では毎年8月25日あたりには鉄砲祭りが行われる:

西之表市で『第40回種子島鉄砲まつり』【2009年のイベント】旅行サイト『プチたび』 - puchitabi.jp: "2009年8月23日(日)10:00〜、西之表市で『第40回種子島鉄砲まつり』が開催される。1543年(天文12年8月25日)に日本で最初に鉄砲が伝来したのを記念して行なわれる種子島最大の祭り。伝統行事の太鼓山、みこし、時代絵巻をほうふつとさせる南蛮行列などが繰り出す。23日(日)21:00〜21:30は約3000発の花火も打ち上げられる。太鼓山行列(10:00〜14:00) 、南蛮パレード(15:30〜17:30)。"

2009年8月24日月曜日

8/24 Today ポンペイ最後の日(79)

ポンペイ - Wikipedia: "ポンペイ(ラテン語:Pompeii、イタリア語:Pompei)は、1世紀までナポリ近郊にあった都市で、イタリアの世界遺産である。79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌25日に完全に地中に埋まった。

ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテルMurecine」と呼ばれる。"

当時の人の生活ぶりを見ると、人間は昔から大して進歩していないことがよく分かる。

それにしても、一発こういう火山噴火があると地球の気候はどうなるのだろう。温暖化ガスの増加は科学的に計算できるとしても火山噴火は科学的に予測できない。また大隕石が落ちてくる確率もある。太陽の黒点が急減する可能性もある。そういう不確実性を無視して計算できるものだけをベースに「科学的な」予測をするということは、非科学的じゃないのか。

2009年8月23日日曜日

8/23 Today 諸葛孔明が死ぬ(234)

諸葛亮 - Wikipedia: "諸葛 亮(しょかつ りょう、181年 - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将・軍略家・発明家。字は孔明(こうめい)。234年春2月、第五次、最後の北伐に出た。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。しかし、頼りにしていた呉が荊州と合肥方面の戦いにおいて魏に敗れ、司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた諸葛亮は、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。"


これだけの業績を上げた人だが、死んだときは54歳だった。おいらみたいな凡人は、ただいたずらに馬齢を重ねるのみ。

2009年8月22日土曜日

8/22 Today リチャード三世が戦死(1485)

リチャード3世 (イングランド王) - Wikipedia: "リチャード3世(Richard III, 1452年10月2日 - 1485年8月22日)、ヨーク朝イングランド王(在位:1483年 - 1485年)。エドワード3世の曾孫ヨーク公リチャードの八男。即位前はグロスター公。薔薇戦争の最後を飾るイングランド王であり、戦死した最後のイングランド王である。

1485年、ランカスター派のヘンリー・テューダーがフランスから侵入し、ボズワースの戦いで自ら軍を率いて決戦する。この戦いでリチャードは味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。遺体は当時の習慣に従って丸裸にされ晒された。

リチャードはシェイクスピアによって、ヨーク朝の後継王朝であるテューダー朝の敵役として性格・容姿ともに稀代の奸物として描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。"
己の肉体的劣等感を強烈な権謀術数と権力欲に昇華させた男の生涯。最後は「馬をもて!」と叫びながら戦死。

ローレンス・オリヴィエの映画がいいよ:
リチャード三世(1955) - goo 映画

生まれつきの善人もいるし、生まれつきの悪人もいる。それが世の中。

2009年8月21日金曜日

8/21 Today 弓削道鏡が失脚(770)

道鏡 - Wikipedia: "道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の法相宗の僧。祈祷の力をもって王家に取り入って権力を握り、政治に容喙したことから、よく帝政ロシア末期の怪僧グリゴリー・ラスプーチンと対比される。神護景雲4年(770年)に称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没し庶人の待遇で葬られた。"
女性天皇をたぶらかした悪い坊さんというイメージだが、最近道鏡を再評価する動きがあるらしい。

八尾市にある道鏡のファンクラブ:
道鏡を知る会メインページ:”この会は、植松の郷土史家 山野としえさんが、郷土文化誌の「河内どんこう」(昭和50年[1975年])に『植松風土記』を連載されていた時期の、昭和55年(1980年)「続日本紀」の弓削道鏡と称徳女帝の竜華寺参拝のくだりと今の植松の歴史を紹介し、悪僧と世情呼ばれているとなり村の弓削出身の道鏡さんが、実は立派な学識を持った人物であることを紹介したことにはじまります。”

人の評価は、生きているうちは決められない。死んでからでさえ、決められない。